以下は、3/11より以前に書いた文章で、「母の友」2011年5月号(696号)、4月1日発行(福音館書店)予定のものです。
ちょっとフライングですが、震災の支援でも心の片隅においておいてほしいので、編集部の許可を得て、ここにも掲載します。
「母の友」では、すてきなイラストつきです。
他にも素晴らしい文章が集まっているので、「母の友」もぜひ手に取ってみてくださいね。
被災地の保育所や幼稚園にも届くことを祈っています。
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<何か役割があるということ>
もうずっと前だが、米国のテレビドラマ『ER』を見ていて、忘れられないシーンがあった。
元看護師で今は救命救急の女性医師であるアビーが、飛行機の墜落現場に緊急出動させられる。自分のシフトが終わる直前の要請で、次のシフトの医師に頼むが、けんもほろろに断られる。家に帰って自分の子どもとゆっくり時間を過ごすはずだったのに、とほほ・・・である。あきらめてヘリに乗り現場に着くと、既に日は暮れ真っ暗で、崖の上に飛行機がひっかかり、今にも落ちそうだ。外には飛行機から放り出された乗客たちのうめき声が聞こえる。飛行機の中には母親と男の子が残されている。5,6歳だろうか。母親は身体を機材に挟まれ、大きな工具が別の救急隊によって届けられなければ、脱出できない。アビーはとりあえず男の子だけを飛行機から出すが、男の子は母親のことが心配で、一緒にいたくて、飛行機に戻ろうとする。そのときアビーが、男の子に懐中電灯をわたす。そして「私に光を当てて。これはあなたの大切な仕事よ。あなたが光を当ててくれなければ、私は何も見えなくて、けがをした人たちを助けられないの」と言う。アビーがあちこちに散らばるけが人に応急処置できるよう、男の子は一生懸命彼女の動きに光を合わせていく。
何かすることがあって、自分が役に立っていると男の子に感じさせることは、男の子が飛行機の中に走り込まないようにするためだけでなく、彼の心の傷つきを防ぐためにも、とても有効な方法である。たとえ母親が助からなかったとしても(実際には助かったが)、その子が生き続けることを根底で支えるような「人間としての誇り」を、その経験は残すだろう。
目の前で苦しんでいる人を見ながら、自分が何もできずにいることは、とてもつらいことであり、非力感や罪悪感を強く心に刻みこませてしまう。
男の子はじっと何もせずに、母親が救われるのを待つことはできない。わたしたちはみな、そうなのだ。お百度を踏むのも、千羽鶴を折るのも、何かをしているということが、その人の待つ時間を支えるからだ。
記憶だけで今この文章を書いているので、実際のドラマとは細かい設定やせりふは違うかもしれない。が、とにかく、こんなふうに子どもの気持ちを理解し、適切な行動を示せるアビーはすごいし、こんなシナリオを書けるライターは素晴らしいと思う。
私たちは子どもを無力な存在とみなし、守ろうとする。それはそれで大事だが、子どもは自分が無力であることを実はつらく恥ずかしく思っている。そして自分が役に立ったという経験は、ずっと後まで自信や自己存在の喜びとして残る。
私は以前子どもとの旅行で、飛行機に乗り遅れそうになったことを思い出す。空港で、まだまだ出発しないからとのんびりしていたら、子どもが電光掲示板を見て、12:40だよ、もうすぐじゃないの?と言ってくれたおかげで、ぎりぎり搭乗に間に合った。なぜか14:20と勘違いしていたのだ。その話は我が家で語り草になっていて、子どもはその話をするたび、目を輝かせる。間の抜けた親をもつことも、子どもにとっては自分の力を発揮する機会を与えられてラッキーなのかもしれない。乗り遅れていたら、恨みを買っただろうけど。