読売新聞1995.4.1の「論点」に書いたものです。
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「被災支援者に心のケアを」
阪神大震災から二か月半。表面上はようやく落ち着きが戻ってきた。しかし、人々の心の傷とその回復という点ではむしろこれからが正念場である。今回の震災では幸い、被災者の心のケアの重要性が早期から指摘され、援助活動も行われているが、その陰に隠れて見逃されやすいのが「被災者を援助する人たち」の心の問題だ。
被災者の生活の回復は、消防救急隊員、警察官、医療福祉関係者や学校教諭、地方自治体の職員、避難所の自治会のリーダー、ボランティア団体のスタッフ、ライフラインの復旧従事者など多くの人たちに支えられている。これら援助者の中には、最初は必死の思いで無理な仕事量をこなしてきたけれど、今、疲労の極致にあるという人が多いのではないだろうか。
意欲が落ち、仕事のミスが増える。たばこや酒の量が増える。胃痛や頭痛、生理不順など身体の不調。眠れない。集中できない。いらいらし、怒りっぽい。これらはみんな精神的ストレスの高まりを示す危険信号だ。ほうっておけばうつ病、燃え尽き症候群、休職や大きな労働事故、過労死、自殺といった事態になりかねない。
また、援助する側が心の余裕と笑顔を失えば被災者との関係にもひびがはいり、ひいては被災者の心の回復をも遅らせる結果になる。
援助者の多くは緊張を強いられる長時間の労働をしてきている。生死にかかわる迅速な決断を迫られ、無惨な死体を取り扱い、遺族の嘆き悲しみに直接ふれる第一線の仕事。きめ細かなアレンジが重要にもかかわらず、自分がどう役立っているか見えてこない後方支援の仕事。必死でやっても感謝の言葉より不満をぶつけられる方が多い行政窓口の仕事。いずれも精神的にかなり負担の多い状況だ。
でも、こうした援助者の精神的負担は本人も周りも認識しにくく対応が遅れがちだ。当然の業務ということで理解や同情が得られず、調子を崩しても「ひよわ」「怠けている」とみなされやすい。
実際には自分より他人のことを優先する責任感の強い人ほど、仕事を抱え込んでしまう。まじめな人ほど被災地を離れて休養をとり遊ぶことに罪悪感を感じる。被災者に感情移入すればするほど自分の家族の悩みがつまらなく見えるなど感覚にずれを生じ、本来の生活基盤をも崩しがちだ。
また、援助職にある人ほど援助されるのは嫌がる傾向もある。支える側の人間が世話をうけるなんてと助けを求めるのが遅れる。他者を支えることで使命感や充足感を得ている場合、自分の精神的不調を認めるだけで「必要とされる強い人間」という自己アイデンティティが壊れかねないからだ。
では、援助者を支えるための具体的な対策とは、どんなものだろう。まずは、われわれ皆がその人たちの努力を認識し、ねぎらうことである。ごくろうさまの一言がどれほど疲れを癒すことか。震災後の対応の批判も必要だが、自分がその場に立ってできそうにもないことを、離れた所から攻撃すべきではない。
被災地外部からの継続的な人的支援も必要だろう。内部の人間として働く専門職員の長期貸与などの制度を各職域別にもっと考えてもいいのではなかろうか。
つぎに、職場での取り組みである。業務量と時間の制限、計画的な休養、安全で快適な職場環境の確保など労働衛生の基本条件は非常時にこそ厳守すべきものだ。
また全体の様子が見えるよう情報をオープンにし、ゴールをはっきりさせ、個々人がやりがいや達成感をもてるようにすること、責任範囲を明確化し、矛盾する役割を一人に課さないことも重要だ。トップにたつ人間は実行できない美辞麗句を並べるべきではない。建前で約束したことと現実とのギャップを指摘されて非難を浴びるのは、常に現地のスタッフであり実務をつかさどる職員である。
メンタルケアに関しては、災害が及ぼす被災者や援助者への心理的影響について知識を広め、意志の強さでどうにかなるという根性論を捨てることが必要である。仕事上のつらい経験や感情を共有できるような、定期的な話し合いの場も非常に有効だ。その場合は、精神的に弱いと思われるのを恐れて参加しない人もでてくるので、全員を対象とする。必要な場合は勤務評定に影響しない状況でカウンセリングや専門的治療につなげていくことも重要だろう。
本人にはとにかく「がんばりすぎないで」と言いたい。自分がいなければという過度の思い込みを捨て周りに仕事を預けること。自分の貢献を積極的に評価すること。仕事場を離れ、ゆっくり休めば、視野が広がり仕事の能率も上がる。そして援助者も精神的にまいって当然であり、援助をうけるのは恥でないと考えてほしい。
支えられるばかりでも支えるばかりでも、人間は生きていけない。自分は強い人間だと虚勢を張るより、時には弱音をはき愚痴をいい、めげたり涙を流したりする人の方が、しなる竹のように息の長い支援を続けられるはずだ。